昭和四十三年九月五日 朝の御理解


X御理解五十七節「金の杖をつけば、曲がる竹や木は折れる。神を杖につけば楽じゃ」と

 神を杖につけば、楽じゃということは、神様だけだということではない。ここにはお金も必要、物も必要、人も必要、人間が幸せになっていく。いわゆる楽じゃと。楽じゃというおかげを頂くためには、金も物も人も全てのものが必要。ここんところを少しね、深めて頂きたい。まあ、確かに金の杖をつけば曲がる。竹や木は折れる。竹や木という金というのは財の事をここでは頂くお金の事、金銭の事。どんなにたくさんのたとえば、お金を持っておってもそのお金がかえって身を滅ぼす元になったり、使えばなくなっていくような金であったり、そういう金ではここでいえばつけば曲がるとおっしゃる。それは杖にはならん。それにはあてにはならんというのである。竹や木は折れると言われる。ここでは、竹と言えば、素直とおっしゃるから、素直ということにいたしましょう。木は折れる。木は心と言われるから、まあ素直な心とでも言おうか。「あの人は仏教のようなんじゃ、神様のような人じゃというても、次々難儀なことが起こってくると言っておられるように唯素直な心を持っておれば例えば、雲の上まで昇る道があるとおっしゃるのはね。唯、人間的にあの人は素直だと純情だ、純粋だと言う意味じゃない。そういうのはね、かえっていわゆる正直者が馬鹿を見るというような結果にならん。ここでは、どこまでも、信心による素直さなんですね。ですから、たとえば、その竹や木は折れるというのは人間が良いだけではいけんという。又、人間が強いだけではいけんという。非常に強い心を持っておる人がありますよね。がん力とまでいかぬ、まあ我が強い人がいます。我慢、我力が強い人があります。けれども、どんなに我慢、我力が強かっても素直であってもです。そうとばっかりいけないことがある。いくら、素直であってもこれ以上は素直になれないという事もある。どんなに気が強かってもいわゆる負けん気の強い我慢、我力の強い人でも、もうへとへとという時があるでしょうが。もう手を上げたというように根を上げるような事があるでしょうが。これは正しくその木や竹は折れるである。折れるのです。そこが人間です。「神を杖につけば、楽じゃ。」と。なるほど、神様がだんだんわからしてもらうようになり、神様におすがりしておるから、お取次頂いておるからと有難いことにそれがつながっていくことを信じておれば、安心が生まれる。楽ですよね。ですから、まあ今まではそういうふうに頂いてきたし、又、そうであるけれどもそこんところをもうちょっと言うと、それは神様を信じておれば、楽だけれどもそこに金が必要な時、金がなかったら、やっぱり苦しいでしょうが。ここに人材が必要だと言うとき、人材がなかったら、難儀せなきゃあならんでしょうが。いかに神様を信じておかげになると確信しておってもここにこれこれだけのものが必要である時にです。みな不自由しておったんでは、やはりその時は難儀じゃあないでしょうか。ですから、楽じゃと言うおかげを頂くためには金も人も物も必要だと。けれども、それがです。使えば、なくなると言ったような物では駄目だと。今日私は申します。いわゆる使うて減らぬ金百両というか、そういう金であり、物であり、人でなければならぬと言うことです。これは信心があってもなかっても同じですけれども、まあこつこつとおかげを頂いてからお金なら、お金を貯めておかげで十万貯った。百万貯ったと、おかげで一千万財産がでけたと。まあ、貯めていきますか。ところがですね。おかげを頂いて貯めていくとね。だんだん、金の虜になってしまう。それでまあ、金の杖というと理屈は同じですけれどもね。金を自分の物にして生きよるようであるけれども、実はいうたら、金から、自由にされる。いうなら、金から*練を受ける。さあ、百万のものは百五十万にしたい。百五十万の物は二百万にしたい。そういう欲が出ることはもちろんですけれども、そのお金から閉じ込められてしまう。益々不自由になってくる。これではやはり、金を杖につけば、曲がることにしかなってこない。信心しておかげを頂いたと言うてもだから、信心して徳を受ける。そして、その徳についてくる金、物人、そういう例えば、金ならばです。金に束縛されることはない。そして使うてもえらぬ金、百両使うても使うても、もうその人に備わった物。よく言うでしょう。お金なんか落としたときに自分に備わってなかったもんだろう。もう間違いなし。備わっていなかったんですよ。だから、それを追っていったって駄目ですよ。もう諦めが肝心。そういう時々はいわゆる教祖はそんな時思い返せとおっしゃる。思いかえが肝心。はあ、これで大難が小難におまつりかえを頂いた。ない命のところであったかもしれんけれども、これをこれぐらいな事でおかげ頂いたというふうに思いかえをして行けとこうおっしゃる。いうならば、それは自分の身には伴わなかった物、伴ってなかった。だから、それが備わらなければいけない。人でも物でも金でもその人にふさわしい、その人の徳なりのものがです。やはり備わってきたとき初めておかげであるお金でも物でもおんなじです。例えば私は私が若い頃から、非常に好みが強かったです。着物でもやはり、その時分おかげを受けておったと思うのです。そして、いうならば、まあ衣装道楽までもいかんにしましても、なんとはなしに激しい衣装道楽だったと自分で思う。こういう着物にはこういう帯をして、こういう下駄を履いてというようにその時分でも非常に好みが強かったから、それが出来るおかげを頂いておった。いわゆるおかげを頂いておった。ところが信心しておかげを頂いておったんだけれども、それは、どこまでも信心しておかげを受けておったというだけの事ね。自分で一生懸命おかげを頂いて働かしもらうて、儲けさせて頂いて、それで自分の好みの物を買わして頂いてやはりおかげを頂いてこういう物を身に着けられるというて悦に入っておった時代もあった。やはりおかげを受けておる。けれども私は、信心をして徳は受けていなかった。ですから、結局はそういう自分の好きで作った、好みで作ったようなものでもみんな一遍天地にお返ししなければならんような事が起きてきた。いわゆる、終戦である。引き上げである。私の場合なんかは帰る一年前にですね。これだけは持って帰ろうと大ごおりに幾つだったか、自分で数えるだけの物、着物だけでも私と家内の物をここならもう大丈夫というところにしまって自分の家にも置かずに。その入れてあったところがね、それをなおしたときにですね、もうおそらくなおした時の例えばボーイが手引したのでしょうね。もうこれを入れたら、すぐにさっそく全部とられたんです。それはやっぱり、おかげを受けておったと思うのですよ。もうよいものは、高利に入れてしまっておったと思うのですけれども、やはり入れてないものが随分あった。私は、そういうて終戦後は実にそれは日本人は哀れなもんでしたからね。強盗がはいるんですよ。しかも兵隊だというて、その愚連隊みたいなのが入ってくるですね。夜中に五人、六人も入って来るんです。それで手向かえば怪我させられたり、殺されたりするんです、ですよね。本当に夜もろくろく眠られんといったような時代が続きました。だから、もう結局とられてしまったきり、二度目に入られたときなんかもう子供達が着ておる毛布までもはぐって持っていきましたからね。それでもやぱり残った物が結局不自由せんですむだけのおかげは受けておった。私はあの時今でも私は今でもですね。不思議でたまらんこと、家内と話すんですけれどもね。こうしてみんなでですね。大きな毛布から敷布やらに包んで持っていったんです。6人から7人ぐらい青年ばかり入って来たんですよね。外に出てからみんな包んで持って行った。ところが一おりだけ窓からポンと投げ入れてくれたんです。投げ入れてくれたかどうかしらんです。けれども、それがです。窓から家内が履物やら持っていったものだけをおいていってる。私はそれを今でもわからない。どういう事であったか。例えば、思いが込められておるというか、真心が込められておるか、それだけは、だから私どもは引き上げてくるときも家内の物だけ持って帰りましたよ。一おりだけでした。それだけでした。いうならば、それは家内に備わっておったかもしれません。今日の御理解で言うなら、おかげを頂いたんですよ。やはり、お願いしておかげを受けたんです。そして、まあいうならば、このようにぜいたくもでけるようになった。まあだ、三十そこそこでですよ、ね。自分の好みの洋服を作ったり、着物を作ったり、そして自分の好きな書画、骨董といったようなものまで、集められるぐらいにおかげを受けておった。ところが、それを全部置いてこなければならないという、そこに運命があった訳です。おかげを頂いておったけれども、身についていなかったという事なんだ。という事は信心はしておったけれども、徳は受けてなかったという事になる。いわゆる、着のみ着のまま何にもない無一文の状態の中からです。だんだんおかげを頂いて、これは、おかげおかげじゃあいかんぞ、というところから信心が再出発させられてきておる。本気での信心がでけてもう物じゃあない、一じゃあない、金じゃあない、という免角、私がもうおかげを受けなければならんという一生懸命の信心がですね。まあ、いうなら、身に段々徳が受けてきたということにしましょうか。そうしたら、それがです。段々身についてきた。まあ、いうならば、初の内は木綿ものなら木綿物が、絹なら着物でも集まってくるようになり、銘仙類が集まってくるようになり、錦紗類が集まって来るようになりというようにね。これはもう身についてきた。私はもう十四、五年になりますでしょうか。あることがあったときに私がもう全部裸になった。もう当時久保山先生をはじめ、先生と言われる人達に私の持っておる着物やら、袴やらを全部丁度文雄さん達の程度の所までの人達に私が持っておるものを全部もう奉仕者の袴まで最後に楽長である。田中さんにやるものがなかったから、今履いている袴はそうです。私が奉仕に使ってた袴までやってしまった。私は一日二日、丸腰じゃったもう一切箪笥の中に頂いておったもの頂いた物をいっぺん裸になって神様にお詫びをせなならんことがあったんです。裸になったんです。けれども、一週間もかかりませんでしたよ。私が不自由せんですむようになったのは、次々に箪笥のお供えが、次々とあってそしてその箪笥にはやはりぎっしり現在ではおかげを頂いておるようにです。やはり、いくらはずしてもはずしてもですね、身についたもの、いうならば、備わった物。これはどうにもどげん外してもついてくるですよ。もう現在では、家内なんかもそうです。それどころではない。最近では、私が北京時代に自分の好きや好みで集めたなら、書画、骨董といったようなものでも、身についてくるでしょうが。買わんでも、求めないでも、だから、北京時代はおかげを受けておったんだということ。こちらに帰らせて頂いて、だんだん信心をさせて頂くようになってから、頂いたのは自分の身についてきた。いわゆる、備わってきたという事なんです。私は皆さんがおかげを受ける、おかげを受けて金が貯るという金はね、必ず、その金によって窮屈になるです。そして、それをいわば、減らしちゃならんね。減らしちゃあならんという。むしろ、金があったときの方が、美しい心の状態のような嫌な汚い神様のお心に叶わなんような心がおこってくる。おかげを頂いたお金である。ただ、自分が働きだしたお金である。そして、それは使えば、やっぱり減るです。そういうのを金の杖をつけば、曲がるとおっしゃったのだと思います。そこで皆さん、そういう例えばおかげを頂かしてもらうて信心をさせて頂いておるのでございますから、本気で一つ曲がらんところの金、折れないところの木や竹、それを頂いてこそ初めて人間は最後にここにあるように神を杖につけば、楽じゃというならば、これは言い替えれば、頂いた徳を杖につけば、楽じゃということになる。ここんところが今まで頂いた御理解と違うところですよね。神を杖につけばそうでしょうが、お金がなければ、楽じゃないでしょうが、使こうて減らん金がなからなければ、ここ*人が足らんという時に人がおらねば、困るでしょうが、そういうようにですね。もう一切の物が人が金がここに備わらなければいけない。備わった物でなからなければ折れるのであり、曲がるのであり、あてにはならん。頼りにはならんのである。だから、自分に備わったおかげを頂くためにです。信心しておかげを受けるのじゃない、信心して徳を受けなければ、いけないということ。ここで徳をうけるという事についてはまあ、いろいろに私が申しましたまあ、一口で言うならば、天地明の心になる事。肝要なのです。天地明の心になる事、肝要なり。まあ、ここんところの説明は又に致しましてですね、天地明の心になるということはどういうことなんだろう。昨日ある方が朝の御祈念を*****